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ヴィレの個人用呟き備忘録。美術や読書なんかを中心にまとめるよ。 読むのならあまり信用しないで、気になったら自分で調べた方が良いよ。 飽き性だからいきなりやめるかも
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ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

岩波現代文庫、多木浩二「ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読」読了。こないだ読んだ本に載ってたから読んでみた。巻末に「複製技術時代の芸術作品」も掲載されてたけど、気付くの遅くて色々困った。順番逆にした方が良いと思う

アウラって書くとわかりにくいけど要するにオーラ(aura)な訳ね。「事物の権威や事物に伝えられている重み」、「芸術が芸術として存在している事の謎、信念」との事だけど、文章化すると逆にわかりにくくなる気がする

「現代の大衆は、事物を自分に「近付ける」事をきわめて情熱的な関心事としていると共に、あらゆる事象の複製を手中にする事を通じて、事物の一回性を克服しようとする傾向を持っている」ヴァルター・ベンヤミン

ベンヤミンは芸術作品には礼拝的価値と展示的価値の二つの価値があるとした。礼拝的価値というのは、古来芸術作品は魔術道具として使用されていた事と関係しており、存在の重要性と関係している。一方展示的価値とは特に今日の作品において著しい「見せる」事の重要性

その変革の一端を担ったのが、写真、特に風景写真だった。ウジェーヌ・アジェは仏の写真家なんだけど、それまでの写真と言えば肖像写真が中心であり、家族 や恋人の写真を見る事で追憶するという「礼拝」の形があったけど、アジェの写真はパリの街が中心で人影がなかった=展示に重きを置いていた

映画についての論も面白かった。映画の対極は彫刻というのが納得。映画は展示的価値を重要視している最たるもの。特に映画は改良(取り直しが可能)が出来るので、一回性という意味において彫刻(削り直しが不可能)とは反対の位置にある

俳優は大衆を目前にして演技をするのではなく機械装置を前にして演技をする。「だから俳優を包むアウラは、ここでは欠落せざるをえない――したがって同時 に、彼の演ずる作中人物を包むアウラもまた」映画やレコードなんかは複製の塊だものな。ここで止めたら映画批判してるみたいだ

映画、写真といった複製芸術によって芸術は大衆に近付いたと論じている。例えばピカソの作品を見る場合とチャップリンの映画を見る場合の芸術に対する大衆の関係は全然違う。複製芸術のおかげで世の中的に芸術作品が大衆を求め始めたという事に繋がる

「映画は、環境世界の様々なものをクローズアップしたり、……、対物レンズを見事に駆使して平凡な周辺を調べ上げたりして、一方では僕等の生活を必然的に 支配しているものらへの洞察を深めさせ、他方では、これまでは思いもよらなかった巨大な遊戯空間を、僕等のために開いて見せるのだ」ヴァルター・ベンヤミン

要するに絵画や彫刻(場合によって写真。特に宗教画や肖像画)はアウラがあるが故にそこに権力を持ってしまうけど、映画は大衆の大衆による大衆のための芸術!って事と僕は解釈した。誰も特別じゃない事が良い

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