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ヴィレの個人用呟き備忘録。美術や読書なんかを中心にまとめるよ。 読むのならあまり信用しないで、気になったら自分で調べた方が良いよ。 飽き性だからいきなりやめるかも
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La Biblioteca di Babeleシリーズ第30巻、ジョヴァンニ・パピーニ「逃げてゆく鏡」読了。イタリアが舞台の作品は割とあるけど、イタリアの小説家となるとあまりいないのは何故だろうね。イタリアなんてがっつり欧州だし、ルネサンスの代表なのに

表題他、「泉水のなかの二つの顔」「完全に馬鹿げた物語」「精神の死」「<病める紳士>の最後の瞬間」「もはやいまのままのわたしではいたくない」「きみは誰なのか?」「魂を乞う者」「身代わりの自殺」「返済されなかった一日」の10編収録。結構多めに入ってる

「泉水のなかの二つの顔」「精神の死」「もはやいまのままのわたしではいたくない」「きみは誰なのか?」が好みである。タイトルから察知できるかもしれな いが、全体的なテーマは重め、だが誰でも一度は考えた事があるであろう事が多い。故にもう少しぶっとんだ話の展開があってもいいかなと思う

「泉水のなかの二つの顔」は昔住んでたが今は廃れてしまった地方都市へ久し振りに訪れた男の話。そこには過去の自分がいて、最初はすごく打ち解けてたのだ が、次第にどんどん嫌な所が見えてきて…という物語。ドラえもんがのび太の宿題終わらせるために未来の自分を呼んでくる話があるんだがあんな感じ

「もはやいまのままのわたしではいたくない」は「私はついに自分以外にはなれない事に気付いてしまった」男の話。決して自分をやめる事は出来ない、だから 何から何まで別人になりたいのであると。だが、それは「いま在るがままの者にならないための、最善の道を踏み出している」事ではなかろうか

「きみは誰なのか?」は、手紙が届かなくなった男の話。しばらく待っても来ないし、自分から手紙を送っても返事が来ない。誰かを訪ねても知らないと言われ、憐れまれる始末。だが、そこで男には「自分は誰なのか?」という疑問が湧いてくる。存在の証拠って何でしょうね

一番気に入ったのは「精神の死」かなぁ。自殺の個人的な方法を探求するもの。ナイフや服毒、身投げ、拳銃等で自殺する事は低劣な醜悪な惨虐な下賤な行為である、らしい。そうでなく、生を緩慢な死と捉え、死にたいという意志の力で死んでゆく事を望むクレスレルという青年

「力ずくによる自殺行為。それは屠殺屋のする真似だ。そんな事は避けなければ……おのれの命をおのれの力で、少しずつ破壊し、否定していかなければ。不意に、肉体を切り刻んだりしてはいけない。そういう真似は馬鹿げている…」とクレスレルは言う。この引用は語り手が偶然拾ったドストエフスキーの「悪霊」の中に手書きで書かれていたものなんだけど、残念ながらまだ読んでないので、多分これもヒントになってるんだろうなぁと思います

「精神こそは万能であり、意志こそはこの世の君主です。望みさえすればよいのですから……死ぬためにはなるべく少なく望む事が必要になり、望まぬ事だけを望むようになるのです」とクレスレル君は言うが、確かにその通りである。純粋な自殺とは意志の力だけで死ぬ事かもしれぬ

「何も望まぬ事こそが完全な自殺」というのは、昨日宮沢賢治読んだばかりの僕にとって少し強過ぎたかも知れない。自分の精神に殉じて死ぬという事でしょう。美しいかもしれないけど辛いでしょうね。でも本人はそれが満足なんだもの、辛くて死ぬ方がきっと健全です

ずっと生きてたらやりたい事増えて辛くなるだろう
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