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ヴィレの個人用呟き備忘録。美術や読書なんかを中心にまとめるよ。 読むのならあまり信用しないで、気になったら自分で調べた方が良いよ。 飽き性だからいきなりやめるかも
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明治大学博物館、通称拷問器具博物館に行ってきた。大学内の博物館なんで無料で入れるという魅力。江戸時代の拷問器具を中心に多種多様の拷問器具がありました

例えば「石抱」「笞打ち」「海老責め」「釣り責め」など。あとは罪人を縛るための縄の色を四季で変えるというお洒落っぷりに対して複雑な気持ちになった。 さらし首がただ置いてあるだけじゃなくてきちんと固定されてる事や、磔刑が想像以上に開脚して括られる所とか、よく考えられているなと思った

かの有名な「鉄の処女」や「ギロチン」も見られて無料。素晴らしい。明大の歴史も垣間見える。他にも博物館らしく石器とかも展示してあります
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監獄の誕生―監視と処罰

新潮社、ミシェル・フーコー「監獄の誕生―監視と処罰―」読了。フーコーによる権力論の本。ヨーロッパにおける刑罰は身体刑(四つ裂きや車引き)から監獄へ収監する精神刑へと変わっていった。それによって新しい権力作用が出てきたという。日本の刑罰も歴史的には同じだよね

死刑を賛美するような人達に対して自分は何故か肯定的になれなくて、ベッカリーアがその理由を述べていると思う。「殺人行為を恐ろしい犯罪であると語っている本人が、良心に咎められもせず平然とそれを犯しているのを、われわれは目撃するのだ」かつての死刑は見世物であった

ヨーロッパって死刑執行人が世襲制だったとこが多い。だから、あの家は執行人の家系って事で疎まれる事もある。「死刑執行人を犯罪者に、裁判者は殺人者に 似ていると彼らに思わせているではないか、刑執行の最終時点になるとそれらの役割をあべこべに……受刑者を同情の的にしているではないか」

昔の死刑(身体刑)は手間がかかり過ぎて痛々しくて目を背けたくなるようなものばかりだった。結局そういう死刑は人道的観点から精神刑、すなわち監獄への収容と変わっていった。死刑も楽に死ねるようにギロチンが開発されたりした。さらにそこから監視や規律といったものも作られる

監視や規律となると監獄だけじゃなくて、学校や病院も一種の監獄みたいな事になる。ここでフーコーはベンサムの一望監視方式(パノプティコン)を例に挙げ ている。いつ、誰に見られているかわからない、常に監視されているかもしれない中で人は規律を守る。これが新しい権力作用をもたらしている

イギリスでは一日に100台の監視カメラに見られるらしい。いつ、誰に見られているかわからない。そういった意味では社会も一種のパノプティコンなんだろうなと思いました。だが、それでも犯罪は起こる。監獄の中だって監視されていても犯罪は起こる訳でな、うーん

監獄と社会の何が違うんだろうか。犯罪者を一定の場所に閉じ込めてしっかりした監視体制でそれが「安心」だろうか。どっちにとっての安心だろう。社会だっ て変わりない。一定の場所から人間なんてたいして動かない訳だし、現代は監視カメラがある。規律を守る事が規律なのだから、何も変わらない
日本人のしつけは衰退したか (講談社現代新書 (1448))

講談社現代新書、広田照幸「日本人の教育は衰退したか」読了。「最近の子供は躾がなってない」とか「最近の子供は凶悪犯罪が目立つ」とか「昔はきちんと躾けていた」とかの ステレオタイプに教育批判をする人達に対して「本当に昔は良かったのか?」と疑問を呈し、冷静に分析した本。読み易くてわかり易い

ちゃんと時代性を追って教育とは何たるやを論じていて、教育関係の人じゃなくてもわかりやすい。(全部読んだけど)序論と結論だけしか読まなくても理解ができるというのは論文の形として有難いしよくできているなぁと思う。参考文献も一杯あってよく調べられてる

「電車の中で騒ぐ子供を注意しない母親について、同世代の母親が(中略)非難する投書を新聞で目にした事があるが、これなどは、階層差か個人差かはわからないが、躾に厳しい親がそうでない親を批判しているにすぎないのに、昔と今との対比で論じてしまっている例である」

「高学歴・高階層の親は、わが子の躾に「自信がある」と答える比率が高いという傾向がある……にもかかわらず、彼らは一般論としては「現代は家庭の教育力 が低下している」と答える比率が高い。「自分のところはうまくいっているが、世間は酷くなっているという」状況認識なのである」

かつての農村社会の躾って確かに放任的だったかも。「礼儀正しく」って言っても、その農村社会限定での礼儀だったり。「昔は父親の威厳があった」って言っ ても、それって威張ってただけじゃないのって感じだったり。ちゃんとノスタルジーであると言ってるのがすごい。過去は美化されるものである

あとは親の子殺しについて。ここで出されているのは息子の家庭内暴力からという虐待とは少し異なる事情だけど「親である事をやめる事ができなかった」事による悲劇だと述べている。数十年昔なら、親戚に預けるか奉公にでも出して遠ざける事もできた。「親」の役割を息子を殺す事で解消したともいえる

現代は学歴社会であり時間が増えた事等を背景とし、子供へ教育に強い関心を寄せている時代なのである。よって子供に完璧を求め、親自身も完璧である事を求 められる。躾の衰退は過去の美化や、教育の多様化をわかってない事からによると。あとはメディアが話題性のあるものを取り上げるせいもある

過保護を通り越して、過干渉って言葉は最近できた言葉だし、それによって苦しめられている子供がいる事も事実である。この本が発行されたのが1999年だけど、今でも通用する事は一杯あると思う。昔の悪い所を無視して「昔は良かった」だなんていうのは思考停止だよね
La Biblioteca di Babeleシリーズ第29巻、ヴィリエ・ド・リラダン「最後の宴の客」読了。釜山健と井上輝夫が訳しているのだが、読解力がそこまで落ちたのかと思われるほど訳わからん文章があり、要約も危うい。確認したらだいたい井上氏の訳で、本書において悪訳に定評が…

表題「最後の宴の客」(井上)他、「希望」(釜山)「ツェ・イ・ラの冒険」(井上)「賭金」(井上)「王妃イザボー」(釜山)「暗い話、語り手はなおも暗くて」(釜山)「ヴェラ」(井上)の7編収録。題名の後の()内は翻訳者の名前。個人的な話の好みもあるけど

気に入ったのは「希望」と「ヴェラ」の2つかな。「ヴェラ」は「フランス短篇傑作選」にも収録されているけど、そちらは訳が山田稔に対し、こちらは井上 氏。「ヴェラ」の訳に関しては井上氏の訳の方が詩的な感じがして美しいと思う。特に山田氏の訳だと腹上死という事がわかりにくかった印象だったので

主人公のダトール伯爵が山田氏の訳だと、性格がきつく子供っぽい印象で、その性格からヴェラの死を受け入れられないような感じだった(よってヴェラが姉さ ん女房のイメージだった)が、井上氏の訳だと年相応の言い回しが好印象だった。一応30~35の設定だし、それなりに大人びてほしい訳よ

ヴェラの台詞はほぼないので、ダトール伯爵の言い回しで印象が全然違う。山田氏の訳では夢で見たヴェラの幻を「子供だなあ」と言っているのに対し、井上氏は 「愛しいいたずらっ子」と表現している。山田氏の訳だとヴェラの方が年上に感じ、井上氏の訳だと年下に感じるのは僕だけだろうか

原文ではEnfant!(子供)って言っているだけなので、訳者次第で全然違うなぁと実感した。なんとなく英訳も見てみたらそっちはPoor child!って言ってた。井上派か

「希望」はポーの「落し穴と振り子」の精神的対比のようなものみたい。この話はバベルシリーズの11巻に入っているのでそちらもご参照ください。でも、「落し穴と振り子」よりも「希望」の方が好きだなぁ。「落し穴と振り子」は鼠の描写がなんかやだ

「希望」は死刑宣告をされたユダヤ人囚人の話。高利貸等の罪で死刑宣告された男だが、裁判長が地下牢から出て行った後、施錠が甘かったのか微かな光が見え た事に気付く。この光は希望そのものであり、男は牢獄からの脱走を試みる…ラストが秀逸である。ちょっと鳥肌立っちゃったよ

「ポーの場合、恐怖は肉体的なものであるのに対して、リラダンはもっと微妙で、精神的恐怖の地獄を我々に顕示する」とボルヘスが序文で言っている。現代の 我々にとって前者の恐怖は、娯楽の多様化の影響か文章だけで恐怖を感じるには難しい気もする。後者の方が現代でも通用する気がするのだが
La Biblioteca di Babeleシリーズ第28巻、ペドロ・アラルコン「死神の友達」読了。バベルシリーズは耳馴染みのない作家が出てくる事が多過ぎて、自分の無知を通り越し、ただただボルヘスへの尊敬しか湧かない。また聞いた事無い作家だ

ペドロ・アントニオ・デ・アラルコンは19世紀スペインの作家で「若い頃は神学と法学との間を揺れ動いていたが、やがて文学へと決定的に惹き付けられる事 になる」と、序文から。神学に興味があり、修道院の書庫を漁っていたのに、熱心な反聖職主義者になったのは何故か気になる所。いや故に、か?

諸々あって政治的策略の愚劣さを思い知らされ、幻滅したアラルコンはアフリカの戦争に志願兵として入隊、その後「アフリカ戦争の一証人の日記」 (1859)が書かれ、27年もの間ロングセラーする。「それによって彼は、人気ばかりか、信じ難い事に、金銭まで手に入れたのであった」と。信じ難いっ て…

表題他、「背の高い女」という短編も収録されている。「アラルコンが山羊飼いの口から直接聞いた民間伝承である」との事。「背の高い女」とか、最近だと ネットでも似たような都市伝説あるじゃないですか。19世紀スペインからこの手のホラーあったんですか。怖いからあんまり思い出したくないけど

「死神の友達」のだいたいの粗筋。養父が亡くなり、養母から家を追い出され、恋が叶う事もなく、絶望した男ヒル・ヒルは自殺しようと濃硫酸を口に持って 行った、その時「やあ、友達!」なんて軽い感じに登場した死神(喪服を着た33歳位の中性的な男)。想像するとギャグっぽい

自称友達というだけあって、哀れなヒル・ヒルのそれまでの辛い出来事を助けるべく色々助言を言ってくれる死神。だが、ヒル・ヒルはこの妙に人懐こい死神が 登場する度にびくびくものである。死神の癖に構ってちゃんかよって言う位話し掛けてくる。結果的に助言のおかげでうまく回るのだけど

実はヒル・ヒルが自殺を試みた時に、ちゃっかり自殺は成功していた。哀れなヒル・ヒルを救うために、神は本当に死ぬまでの猶予を与えられたのであった。そして世界はヒル・ヒルが死んでから600年後、2316年、最後の審判の日、死神が怒涛のネタばれをしてくる

そんなこんなでまさかの地球爆発エンド。頭の中でドリフの盆回りの音楽が流れたわ。これ本当に19世紀の小説か?と疑いたくなる。本作は1852年、作者がおよそ19~20歳の頃の作品であるが、うん、若くなくちゃ書けないよね、こんな終わり方

翻訳者である桑名一博のあとがきに、スペイン文学との出会いが載ってるんだけど、親近感があって良い。第一印象の強烈さとか、後に同作家の他作品を読んだ 時のがっかり感とか。海外作家の本読んでると原書で読みたくなるんだけど、頑張って辞書引いて読んだのに微妙だったりとか。超素直。あるある
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