ヴィレの個人用呟き備忘録。美術や読書なんかを中心にまとめるよ。
読むのならあまり信用しないで、気になったら自分で調べた方が良いよ。
飽き性だからいきなりやめるかも
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講談社、野間俊一「身体の哲学 精神医学からのアプローチ」読了。以下精神疾患に関連した呟きなので、過敏な方や影響され易い方は読まない方が良いかと思われる。と、念のため注意書き。とは言ってもそこまで詳細は書かないつもりだけど
フロイトの「エス」の前身であるグロデックの「エス」をベースに、身体と精神の関係を探るというのが本書のテーマ。ではグロデックの「エス」とは何か?となると、グロデックの本もこの人が翻訳していたので、この人の研究のベースがグロデックなのかもしれない
代表として、摂食障害、解離性障害、境界性人格障害を挙げ、これらを敢えて拒食/過食症、解離症、境界例という形に変換している。障害という言葉を取り去 る事で本質論や疾患背景を取り上げているのだが、やっぱり境界例と境界性人格障害は別物だよなぁ…2006年ってそんな感じなのかな
「精神を身体のひとつの現れと見做し、精神を病む事をその人の身体の在り方の偏りと捉え」、メルロ・ポンティのキアスム論(見るものと見られるものが相互に可逆的に侵蝕し合っている状態)を用いて身体と実存を結び付けている
拒食/過食症は言うなれば「疎外する身体」、ボディイメージの障害であり、自分の存在は他者が見ている自分であるという自己疎外からの回復手段。解離症は「乖離する身体」、身体が拡散しているような身体の過剰性により、自己と身体の乖離を起こす事で逃避する事
境界例は「癒合する身体」、他者の共感を導き出す一方で癒合し過ぎの主体性の侵略から、接近しては離れるという二重性、両側面の境界にいる事である。そしてこれらにはハイマート(本来は独語で故郷だが、親、郷里、情緒的交流等を便宜的に指す)の希求が共通として見られると
キアスムが我々の経験の普遍的な基盤であり、「私」の存在の問(ハイマートの問題)を内包しているとの事。そもそもキアスムという概念を初めて知ったので 解釈が合ってるかわからないけど、だいたいこんな感じ。哲学の側面から見てる事もあって、精神医学に精通してなくとも読み易い印象
それぞれの疾患に対して見られる特徴的な症状をきちんと分析していると思う。だが、治療者の視点のせいか、当事者が失望するんじゃないかと思うような書き 方もある。特に解離症と境界例は統合失調症感のような治療者から見た患者の「感じ」が記されているので、それを理解するのが医者じゃないかなぁ
興味深いし読み易いが、最終章がちょっと微妙な感じがする。あとはこの3つの疾患は著者によって恣意的に選択されたものであると書いてあるが、身体と精神の関係を精神医学から考えるのだとしたら、身体醜形障害とかの方がそれっぽいんじゃないかと思う
大修館書店、J.L.オースティン「言語と行為」読了。言語行為(発話行為)の先駆的研究で知られるオースティンの代表的な著書。従来の言語学の対象が事実を述べる事 に対し重点を置いていたのに対し、オースティンは言葉に依頼や警告等の意味がある事に着目した。むしろ従来の言語学はそこには無関心だったのか
オースティンは発言内行為の遂行動詞は、判定宣言型、権限行使型、行為拘束型、態度表明型、言語解説型の5種に分けられると考えた。ちゃんと分類表も掲載 されているのだが、まぁ、イギリス人だし動詞もわかり易い訳であって、日本語に変換したらちょっと違うんじゃねぇのっていうのも無きにしも非ず
そもそも発語内行為とは何か。オースティンは文や語を発する事を「発語行為」と呼んだ。さらに発語行為の中に含まれる行為の事を「発語内行為」と呼んだ。 例えば「窓を開けて下さい」には「依頼」という発語内行為を含んでいる。他にも「猫をたまお名付ける」には「命名」の発語内行為が含まれてたり
さらに発語行為、発語内行為を通じてある結果を引き起こす事を「発語媒介行為」と呼んだ。具体的には聞き手の感情・態度・行為等の変化をもたらす事であ り、「窓を開けて下さい」の発語行為において、聞き手に窓を開けさせるというのが発語媒介行為なのです。基本的な事を研究するって難しいね
だが、まだ「窓を開けて下さい」なら良いが、例えば「今日は暑いね」という発語行為において発話者が何を求めているか探るのは至難の業である。聞き手は窓 を開けるべきか、エアコンを点けるべきか、はたまたただの世間話か。とは言っても文脈あっての文だからね、みたいな事書いてあったような気がする
ハヤカワepi文庫、アゴタ・クリストフ「第三の嘘」読了。「悪童日記」「ふたりの証拠」に続く三部作完結編であり解決編。冒頭は「私」が子供の頃に住んでいた「小さな町」で 投獄されている場面から始まる。ここで読者は「私」は誰か?という問いから始まる。リュカかクラウスか、二部で重なりつつあった一人のどちらか
読み進めるとそれは明らかになる。そして新たな謎が湧きあがると共に「そうだったのか」と次々に解決していく。「第三の嘘」はそれまでの二作と違い、二部 構成となっているのも大きなポイントである。一貫して感情を排した文体は非常に効果的だったようで、作者の思惑にまんまと引っ掛かったみたいです
題名も大きなキーワードで3巻の題名が「第三の嘘」である事から、第一、第二の「嘘」とは?と読者に考えさせる(読み返させる)のも非常に効果的。鮮やか に騙された。作者自身は「悪童日記」を書いた時点で続編を書こうとは思っていなかったらしいが、念のため書けるように余地を残しておいたとの事
すごく考えられた構成だと思う。三部作である事の効果ばかり言っているが、物語としても素晴らしかったです。とても悲しい物語。さらに言えば、改めて読む と作者の自伝的要素がかなり強い作品だったなぁと思う。クリストフさんはハンガリーからスイスへと亡命した作家であり、作品は仏語で書かれている
亡命と言うものの実質的には難民作家と言った方が適切であり、生計を立てるために移住先の仏語で執筆したが、ハンガリー語への思い入れも大変強い人だった らしい。そんな人にとって母国語を失う事は魂の喪失と同等。移住先の言語という不自由な言語で執筆する事は魂を取り戻す事であった
後に作者は「文盲」という名の自伝も執筆している。題名もさながらだが、そこには「フランス語は私の母語を殺し続けているのです」と記している。まさに言語に翻弄された人生であった事が伺える。と、ここまでなんか復習代わりにメモしてあった
「一冊の本は、どんなに悲しい本でも、一つの人生ほど悲しくはあり得ません」この台詞には参りました。そして最後の一文に見せた感情的な所も。三作目は割 と賛否両論みたいだけど、個人的にはこの終わり方で綺麗にまとまっていると思う。より発展させたいなら他作品を参照という事で
あとは訳がすごく上手いという事。3作の原題は「Le Grand Cahier」「La Preuve」「Le Troisième Mensonge」になるんだけど、1作目「大きなノート」じゃここまで印象付けられなかっただろうし、2作目も「証拠」じゃ読者はあまり考えなかっただろう
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