ヴィレの個人用呟き備忘録。美術や読書なんかを中心にまとめるよ。
読むのならあまり信用しないで、気になったら自分で調べた方が良いよ。
飽き性だからいきなりやめるかも
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河出書房新社、マグダ・レヴェツ・アレクサンダー「塔の思想 ヨーロッパ文明の鍵」読了。相変わらず難しそうな題名だけど、塔フェチの塔フェチによる塔フェチのための本といった感じ。人々は何故塔を作り続けるのかという事に疑問を投げかけ、塔に対する精神論を熱く語っている
「すべての塔は「永久機関(Perpetuum Mobile)」」や音楽の滑走奏(glissando)のように原則的に永遠に完結する事のない、完結することの出来ない種類のものである」サグラダ・ファミリアみたいな感じ
塔の精神的特徴として「高所衝動(ヘーエントリープ)」と「戦慄(センセーション)」、「高所陶酔」が挙げられる。要するに人間としての上昇志向と無限性による不快と慰安であると。機能的な事は二次的なものであって、まずは高く作り上げる事が目標である
最終的にアメリカの魔天楼は塔か否かという問いが発せられるけど、著者は魔天楼は塔じゃないと言っている。魔天楼は感情を表現しようという意思が欠けているんだそう。塔と共通的に競争心は持っているだろうけど、塔よりもっと機能性重視で物質的なものなんだって
「アメリカは塔を必要としなかったから建てなかった。凌駕したいという欲求を芸術的なしかたで解決し、表現する必要がなかったのである……感情の完全に象徴的な、精神的表現は、よけいなことになるのである」エンパイアステートビルとか塔みたいな気もするけど、建った後もオフィスの中は空っぽだったらしい
「(当時の)世界一の高さのビル」という名目で急いで作られたけど、世界恐慌の影響で空室のままのオフィスも沢山あって、そんな精神論的な事よりある道の 技術で普通に凌駕しちゃえば良いという事。確かに世界一の高さを作ろうとしてる所は近年先進国になった国が多い印象である
あと、冒頭で「何が塔じゃないか」という事についても触れていたけど、著者によるとジッグラト(聖塔)は塔だけど、ピラミッドは塔じゃないんだって。ジッグラトが神に捧げられた聖塔であるのに対し、ピラミッドは王墓であり、意識は地中へと向き上昇志向が欠けているとの事
でも友達が「ピラミッドは金字塔って言う」って言ってた。多分ヨーロッパと日本で塔に対する思想が違うのかもしれぬ。五重塔はインドのストゥーパ(仏塔)が起源だけど、これも「塔」がつくんだよな、日本ならば。仏舎利のために作ったのなら金字塔と似てなくもないしな
★後に「金字塔」は象形文字的な意味であったと聞いた
「すべての塔は「永久機関(Perpetuum Mobile)」」や音楽の滑走奏(glissando)のように原則的に永遠に完結する事のない、完結することの出来ない種類のものである」サグラダ・ファミリアみたいな感じ
塔の精神的特徴として「高所衝動(ヘーエントリープ)」と「戦慄(センセーション)」、「高所陶酔」が挙げられる。要するに人間としての上昇志向と無限性による不快と慰安であると。機能的な事は二次的なものであって、まずは高く作り上げる事が目標である
最終的にアメリカの魔天楼は塔か否かという問いが発せられるけど、著者は魔天楼は塔じゃないと言っている。魔天楼は感情を表現しようという意思が欠けているんだそう。塔と共通的に競争心は持っているだろうけど、塔よりもっと機能性重視で物質的なものなんだって
「アメリカは塔を必要としなかったから建てなかった。凌駕したいという欲求を芸術的なしかたで解決し、表現する必要がなかったのである……感情の完全に象徴的な、精神的表現は、よけいなことになるのである」エンパイアステートビルとか塔みたいな気もするけど、建った後もオフィスの中は空っぽだったらしい
「(当時の)世界一の高さのビル」という名目で急いで作られたけど、世界恐慌の影響で空室のままのオフィスも沢山あって、そんな精神論的な事よりある道の 技術で普通に凌駕しちゃえば良いという事。確かに世界一の高さを作ろうとしてる所は近年先進国になった国が多い印象である
あと、冒頭で「何が塔じゃないか」という事についても触れていたけど、著者によるとジッグラト(聖塔)は塔だけど、ピラミッドは塔じゃないんだって。ジッグラトが神に捧げられた聖塔であるのに対し、ピラミッドは王墓であり、意識は地中へと向き上昇志向が欠けているとの事
でも友達が「ピラミッドは金字塔って言う」って言ってた。多分ヨーロッパと日本で塔に対する思想が違うのかもしれぬ。五重塔はインドのストゥーパ(仏塔)が起源だけど、これも「塔」がつくんだよな、日本ならば。仏舎利のために作ったのなら金字塔と似てなくもないしな
★後に「金字塔」は象形文字的な意味であったと聞いた
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講談社現代新書、永田諒一「宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史」読了。16世紀初めのドイツにおける識字率は3、4%、都市部でも5%程度だったが、16世紀終わりには50%にまで上昇した。その一端を担ったのが宗教改革、プロテスタントの集団読書と活版印刷であると
集団読書とは、要するに字が読める人の所に行って読んでもらうというスタイル。さらに、プロテスタントはパンフレットの布教のために新技術に目をつけ、そ れが木版画や銅版画だった。挿絵入りの冊子なら理解しやすいだろうという事で普及された。これは後の活版印刷へと発展する
そこで思想の宣伝のために風刺漫画のような挿絵を用いてカトリックを批判した。中世以来ローマ法王は王や皇帝より上の存在という事で三重の王冠がシンボルとなっていたが、三重の王冠を被った悪魔のイラストが出回る。堕落したカトリックを批判してるんだってさ
一方宗教改革者ルターもシンボルが出てくるんだけど、普通の修道士だから伝統的なシンボルがある訳じゃなく、どんどん作り出されていくようになる。修道士と剃髪「真面目で信頼に値する人」の記号から、大学教授であった事から博士の帽子「偉大な英知の持ち主」の記号へ
壁龕(ニッチュ)を額縁のように配置し「肖像に入れられるほど偉大な人」の記号へ、最終的には頭上に鳩が飛び光背(ニンバス)が描かれ、もうただの修道士どころじゃない人へと昇華していった。風刺画の影響力ってすごい
題名からは堅そうな印象を受けるけど、読んでみるとすごくわかりやすい(だって新書だし)。筆者がドイツ専攻という事もありドイツ中心に展開していく。 よって一つ一つの国がどうこうっていうのはあまり書いてないのが少し残念。尤もこの頃の「国」なんて戦争ばっかりでわかんないけど
牧師(プロテスタント)が結婚できて神父(カトリック)が結婚できない理由とか、カトリックにミサがあってプロテスタントにミサがない理由とか、そういった事がわかったような気がする。ルターも結婚したかったんだろうね。さらさら読めて面白かったです
民俗民芸双書、桜井徳太郎「宗教と民俗学」読了。題名そのまま、日本の宗教と民俗についての論文集。まえがき「むしろ両学問(宗教と民俗)を融合させた宗教民俗学とも称 すべき、ひとつのジャンルが確立されねばならない」とある。これ出版した1969年には宗教民俗学という言葉がなかった様子
日本には大きく分類し、神道、仏教、キリスト教、民間信仰の4つの宗教がある。その中からさらに細分化し、○○宗とか、教祖のいない民間信仰があり、日本独自の切支丹(キリスト教とは違う宗教と言っても過言ではない)が存在している。前者3つは有名どころだが、最後のは身近過ぎて何も意識してない
そもそも日本は神仏習合、鎖国下秘密裏に行われていた仏教とキリスト教の融合、開国後の神仏分離など、宗教なんてぶれまくりなので、今更クリスマスはキリ スト教だからアレだとか、正月は初詣行ってないからアレだとか、ハロウィンなんてアメリカ文化出しやがってだとか、どーでもいいんだよ
この宗教観ぶれまくりなところは日本の地理的な問題も関係していると桜井さんは言っている。仏教もキリスト教もユーラシア大陸から伝播されたものであっ て、極東の小国は一種の吹き溜まり的袋小路。さらに細部を見ても、日本は山あり谷あり川ありの地形で東西南北で全く違う文化を持っている
そんな環境から様々な第一次産業に従事してきた日本民族(昔話でも農家や漁師や漁師はいたけど、鍛冶屋とか見ない)は個々の守護神に対する信仰を作ってき た。これは産業革命が遅かった事から結構尾を引いて残っている。さらには日本民族の異教に対する寛容的民族性も関係している
日本の宗教観ぶれまくりなとこが如実に出ている例として門松を例に出している。正月に門松を出す訳を説明できる日本人ってどれだけいる?神社の鳥居に注連 縄を張る理由は?浅草で線香の煙を浴びるのはどうして?僕は曖昧にしかわからない、てかほぼわからない。皆日常的過ぎて気にも留めない
同じような事ってクリスマスやハロウィンにも言える事。クリスマスにわざわざモミの木を飾る理由は?かぼちゃの収穫期って夏なのに何故ハロウィンに使うの か?現代において門松は一種の装飾品になっている。ツリーもかぼちゃも同じように装飾品。まぁ、それが可愛くて盛り上がるんだけどね
門松って正月セール中のデパートとか置いてあるけど、そういう信仰に篤いと思われる田舎って案外置かない風習が多いらしい。代わりに榊や杉や椿を立てると こもあるとか。常緑樹なら何でもいいのかと思ったら、地方によって栗や楢(ナラの木)のとこもあるんだって。同様に雑煮を食べないとこもあるとか
要するに門松は地鎮祭みたいな歳神の拠り所であって、松じゃなくても榊や杉や椿みたいな常盤木でも栗や楢みたいな落葉樹でも忌み木(無花果とか柘榴は実が 裂けるから良くなかったりする)じゃなけりゃ何でも良いと。地域で色々あったけど、神道による統制する動きが起こった(神仏分離)
そんで門松にしちゃえよって事で規制された。今の門松のスタイルはわりと新しいみたい。でも辺鄙なところはその規制が行き届かず(日本の地理的に難し い)、生き残った。そんなこんなでずれが生じる。ずれは辻褄合わせしなきゃならない。そこで古い伝説と結びつけ、新たな伝説へ…という感じ
でも、これだけ色々な規制を受けても風習が残っているんだから、日本人の信仰心ってすごく深いと思う。多神教云々というよりも「崇敬の対象なら神も仏もキ リストも釈迦も」それだけじゃなく、木や山や海も、偉大なものに対する信仰心が篤いなぁと。むしろ自然に入り込み過ぎているんだろうなぁ
日本には大きく分類し、神道、仏教、キリスト教、民間信仰の4つの宗教がある。その中からさらに細分化し、○○宗とか、教祖のいない民間信仰があり、日本独自の切支丹(キリスト教とは違う宗教と言っても過言ではない)が存在している。前者3つは有名どころだが、最後のは身近過ぎて何も意識してない
そもそも日本は神仏習合、鎖国下秘密裏に行われていた仏教とキリスト教の融合、開国後の神仏分離など、宗教なんてぶれまくりなので、今更クリスマスはキリ スト教だからアレだとか、正月は初詣行ってないからアレだとか、ハロウィンなんてアメリカ文化出しやがってだとか、どーでもいいんだよ
この宗教観ぶれまくりなところは日本の地理的な問題も関係していると桜井さんは言っている。仏教もキリスト教もユーラシア大陸から伝播されたものであっ て、極東の小国は一種の吹き溜まり的袋小路。さらに細部を見ても、日本は山あり谷あり川ありの地形で東西南北で全く違う文化を持っている
そんな環境から様々な第一次産業に従事してきた日本民族(昔話でも農家や漁師や漁師はいたけど、鍛冶屋とか見ない)は個々の守護神に対する信仰を作ってき た。これは産業革命が遅かった事から結構尾を引いて残っている。さらには日本民族の異教に対する寛容的民族性も関係している
日本の宗教観ぶれまくりなとこが如実に出ている例として門松を例に出している。正月に門松を出す訳を説明できる日本人ってどれだけいる?神社の鳥居に注連 縄を張る理由は?浅草で線香の煙を浴びるのはどうして?僕は曖昧にしかわからない、てかほぼわからない。皆日常的過ぎて気にも留めない
同じような事ってクリスマスやハロウィンにも言える事。クリスマスにわざわざモミの木を飾る理由は?かぼちゃの収穫期って夏なのに何故ハロウィンに使うの か?現代において門松は一種の装飾品になっている。ツリーもかぼちゃも同じように装飾品。まぁ、それが可愛くて盛り上がるんだけどね
門松って正月セール中のデパートとか置いてあるけど、そういう信仰に篤いと思われる田舎って案外置かない風習が多いらしい。代わりに榊や杉や椿を立てると こもあるとか。常緑樹なら何でもいいのかと思ったら、地方によって栗や楢(ナラの木)のとこもあるんだって。同様に雑煮を食べないとこもあるとか
要するに門松は地鎮祭みたいな歳神の拠り所であって、松じゃなくても榊や杉や椿みたいな常盤木でも栗や楢みたいな落葉樹でも忌み木(無花果とか柘榴は実が 裂けるから良くなかったりする)じゃなけりゃ何でも良いと。地域で色々あったけど、神道による統制する動きが起こった(神仏分離)
そんで門松にしちゃえよって事で規制された。今の門松のスタイルはわりと新しいみたい。でも辺鄙なところはその規制が行き届かず(日本の地理的に難し い)、生き残った。そんなこんなでずれが生じる。ずれは辻褄合わせしなきゃならない。そこで古い伝説と結びつけ、新たな伝説へ…という感じ
でも、これだけ色々な規制を受けても風習が残っているんだから、日本人の信仰心ってすごく深いと思う。多神教云々というよりも「崇敬の対象なら神も仏もキ リストも釈迦も」それだけじゃなく、木や山や海も、偉大なものに対する信仰心が篤いなぁと。むしろ自然に入り込み過ぎているんだろうなぁ
岩波文庫、ヴィクトル・ユーゴー「死刑囚最後の日」読了。ギロチンとは人道的に人を殺す目的において、フランスで作られた処刑道具。「人道的に殺人する」というなんとも矛盾した道具であるが、そのギロチンに上がる事になった男性の視点から書かれた話
「レ・ミゼラブル」はパンを盗んで投獄された男の物語であるが(こんな長い本は当然のごとく未読である。子供の時に「ああ無情」は読んだ気がするけど)、今回の物語は語り手の男の犯罪は一切明かされていない。名前も出されず、ただただ恐怖や絶望感に満ちている
ユーゴー自身は1829年、無名でこの作品を発表したが、発表から3年後の1832年に本作の序文を今度は名前入りで発表する。序文に書かれているのは死 刑制度に対する批判と廃止の訴えだった。19世紀フランスにおいて死刑方法はギロチンによる斬首刑のみで、死刑=ギロチンという事になる
フーコー「監獄の誕生」において身体刑の凄惨さを知った後では、斬首刑がいかに人道的見解から考案されたものであるかがわかるが、当の死刑囚からしてみた ら結末は変わらない。序文においてパミエにおいて五度斬首を受けた囚人の事例が紹介される。斬首刑も一度で死ねなかったら拷問と変わりない
はしがき、本文の後に序文を持っていくという発表順に収録されているのが良かった。何も覆す事ができない絶望と、もしかした赦免されるかもしれないという一縷の希望とで、焦燥感たっぷり。読む前にwikiのギロチン処刑の手順を読んでおくと最期の場面はなんかもうやばい
序文でユーゴー自身が本作品への思いを書いてくれてるのでわかりやすい。2007年にやっとフランスでの死刑廃止が決まったけど、これだけ時間がかかったという訳だ。解説で豊島さんが言ってるけど、やはり翻訳が少し古い感じがする。もっと逼迫した言葉使いのがいいな
新潮社、ミシェル・フーコー「監獄の誕生―監視と処罰―」読了。フーコーによる権力論の本。ヨーロッパにおける刑罰は身体刑(四つ裂きや車引き)から監獄へ収監する精神刑へと変わっていった。それによって新しい権力作用が出てきたという。日本の刑罰も歴史的には同じだよね
死刑を賛美するような人達に対して自分は何故か肯定的になれなくて、ベッカリーアがその理由を述べていると思う。「殺人行為を恐ろしい犯罪であると語っている本人が、良心に咎められもせず平然とそれを犯しているのを、われわれは目撃するのだ」かつての死刑は見世物であった
ヨーロッパって死刑執行人が世襲制だったとこが多い。だから、あの家は執行人の家系って事で疎まれる事もある。「死刑執行人を犯罪者に、裁判者は殺人者に 似ていると彼らに思わせているではないか、刑執行の最終時点になるとそれらの役割をあべこべに……受刑者を同情の的にしているではないか」
昔の死刑(身体刑)は手間がかかり過ぎて痛々しくて目を背けたくなるようなものばかりだった。結局そういう死刑は人道的観点から精神刑、すなわち監獄への収容と変わっていった。死刑も楽に死ねるようにギロチンが開発されたりした。さらにそこから監視や規律といったものも作られる
監視や規律となると監獄だけじゃなくて、学校や病院も一種の監獄みたいな事になる。ここでフーコーはベンサムの一望監視方式(パノプティコン)を例に挙げ ている。いつ、誰に見られているかわからない、常に監視されているかもしれない中で人は規律を守る。これが新しい権力作用をもたらしている
イギリスでは一日に100台の監視カメラに見られるらしい。いつ、誰に見られているかわからない。そういった意味では社会も一種のパノプティコンなんだろうなと思いました。だが、それでも犯罪は起こる。監獄の中だって監視されていても犯罪は起こる訳でな、うーん
監獄と社会の何が違うんだろうか。犯罪者を一定の場所に閉じ込めてしっかりした監視体制でそれが「安心」だろうか。どっちにとっての安心だろう。社会だっ て変わりない。一定の場所から人間なんてたいして動かない訳だし、現代は監視カメラがある。規律を守る事が規律なのだから、何も変わらない
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