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ヴィレの個人用呟き備忘録。美術や読書なんかを中心にまとめるよ。 読むのならあまり信用しないで、気になったら自分で調べた方が良いよ。 飽き性だからいきなりやめるかも
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日本人のしつけは衰退したか (講談社現代新書 (1448))

講談社現代新書、広田照幸「日本人の教育は衰退したか」読了。「最近の子供は躾がなってない」とか「最近の子供は凶悪犯罪が目立つ」とか「昔はきちんと躾けていた」とかの ステレオタイプに教育批判をする人達に対して「本当に昔は良かったのか?」と疑問を呈し、冷静に分析した本。読み易くてわかり易い

ちゃんと時代性を追って教育とは何たるやを論じていて、教育関係の人じゃなくてもわかりやすい。(全部読んだけど)序論と結論だけしか読まなくても理解ができるというのは論文の形として有難いしよくできているなぁと思う。参考文献も一杯あってよく調べられてる

「電車の中で騒ぐ子供を注意しない母親について、同世代の母親が(中略)非難する投書を新聞で目にした事があるが、これなどは、階層差か個人差かはわからないが、躾に厳しい親がそうでない親を批判しているにすぎないのに、昔と今との対比で論じてしまっている例である」

「高学歴・高階層の親は、わが子の躾に「自信がある」と答える比率が高いという傾向がある……にもかかわらず、彼らは一般論としては「現代は家庭の教育力 が低下している」と答える比率が高い。「自分のところはうまくいっているが、世間は酷くなっているという」状況認識なのである」

かつての農村社会の躾って確かに放任的だったかも。「礼儀正しく」って言っても、その農村社会限定での礼儀だったり。「昔は父親の威厳があった」って言っ ても、それって威張ってただけじゃないのって感じだったり。ちゃんとノスタルジーであると言ってるのがすごい。過去は美化されるものである

あとは親の子殺しについて。ここで出されているのは息子の家庭内暴力からという虐待とは少し異なる事情だけど「親である事をやめる事ができなかった」事による悲劇だと述べている。数十年昔なら、親戚に預けるか奉公にでも出して遠ざける事もできた。「親」の役割を息子を殺す事で解消したともいえる

現代は学歴社会であり時間が増えた事等を背景とし、子供へ教育に強い関心を寄せている時代なのである。よって子供に完璧を求め、親自身も完璧である事を求 められる。躾の衰退は過去の美化や、教育の多様化をわかってない事からによると。あとはメディアが話題性のあるものを取り上げるせいもある

過保護を通り越して、過干渉って言葉は最近できた言葉だし、それによって苦しめられている子供がいる事も事実である。この本が発行されたのが1999年だけど、今でも通用する事は一杯あると思う。昔の悪い所を無視して「昔は良かった」だなんていうのは思考停止だよね
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La Biblioteca di Babeleシリーズ第29巻、ヴィリエ・ド・リラダン「最後の宴の客」読了。釜山健と井上輝夫が訳しているのだが、読解力がそこまで落ちたのかと思われるほど訳わからん文章があり、要約も危うい。確認したらだいたい井上氏の訳で、本書において悪訳に定評が…

表題「最後の宴の客」(井上)他、「希望」(釜山)「ツェ・イ・ラの冒険」(井上)「賭金」(井上)「王妃イザボー」(釜山)「暗い話、語り手はなおも暗くて」(釜山)「ヴェラ」(井上)の7編収録。題名の後の()内は翻訳者の名前。個人的な話の好みもあるけど

気に入ったのは「希望」と「ヴェラ」の2つかな。「ヴェラ」は「フランス短篇傑作選」にも収録されているけど、そちらは訳が山田稔に対し、こちらは井上 氏。「ヴェラ」の訳に関しては井上氏の訳の方が詩的な感じがして美しいと思う。特に山田氏の訳だと腹上死という事がわかりにくかった印象だったので

主人公のダトール伯爵が山田氏の訳だと、性格がきつく子供っぽい印象で、その性格からヴェラの死を受け入れられないような感じだった(よってヴェラが姉さ ん女房のイメージだった)が、井上氏の訳だと年相応の言い回しが好印象だった。一応30~35の設定だし、それなりに大人びてほしい訳よ

ヴェラの台詞はほぼないので、ダトール伯爵の言い回しで印象が全然違う。山田氏の訳では夢で見たヴェラの幻を「子供だなあ」と言っているのに対し、井上氏は 「愛しいいたずらっ子」と表現している。山田氏の訳だとヴェラの方が年上に感じ、井上氏の訳だと年下に感じるのは僕だけだろうか

原文ではEnfant!(子供)って言っているだけなので、訳者次第で全然違うなぁと実感した。なんとなく英訳も見てみたらそっちはPoor child!って言ってた。井上派か

「希望」はポーの「落し穴と振り子」の精神的対比のようなものみたい。この話はバベルシリーズの11巻に入っているのでそちらもご参照ください。でも、「落し穴と振り子」よりも「希望」の方が好きだなぁ。「落し穴と振り子」は鼠の描写がなんかやだ

「希望」は死刑宣告をされたユダヤ人囚人の話。高利貸等の罪で死刑宣告された男だが、裁判長が地下牢から出て行った後、施錠が甘かったのか微かな光が見え た事に気付く。この光は希望そのものであり、男は牢獄からの脱走を試みる…ラストが秀逸である。ちょっと鳥肌立っちゃったよ

「ポーの場合、恐怖は肉体的なものであるのに対して、リラダンはもっと微妙で、精神的恐怖の地獄を我々に顕示する」とボルヘスが序文で言っている。現代の 我々にとって前者の恐怖は、娯楽の多様化の影響か文章だけで恐怖を感じるには難しい気もする。後者の方が現代でも通用する気がするのだが
La Biblioteca di Babeleシリーズ第28巻、ペドロ・アラルコン「死神の友達」読了。バベルシリーズは耳馴染みのない作家が出てくる事が多過ぎて、自分の無知を通り越し、ただただボルヘスへの尊敬しか湧かない。また聞いた事無い作家だ

ペドロ・アントニオ・デ・アラルコンは19世紀スペインの作家で「若い頃は神学と法学との間を揺れ動いていたが、やがて文学へと決定的に惹き付けられる事 になる」と、序文から。神学に興味があり、修道院の書庫を漁っていたのに、熱心な反聖職主義者になったのは何故か気になる所。いや故に、か?

諸々あって政治的策略の愚劣さを思い知らされ、幻滅したアラルコンはアフリカの戦争に志願兵として入隊、その後「アフリカ戦争の一証人の日記」 (1859)が書かれ、27年もの間ロングセラーする。「それによって彼は、人気ばかりか、信じ難い事に、金銭まで手に入れたのであった」と。信じ難いっ て…

表題他、「背の高い女」という短編も収録されている。「アラルコンが山羊飼いの口から直接聞いた民間伝承である」との事。「背の高い女」とか、最近だと ネットでも似たような都市伝説あるじゃないですか。19世紀スペインからこの手のホラーあったんですか。怖いからあんまり思い出したくないけど

「死神の友達」のだいたいの粗筋。養父が亡くなり、養母から家を追い出され、恋が叶う事もなく、絶望した男ヒル・ヒルは自殺しようと濃硫酸を口に持って 行った、その時「やあ、友達!」なんて軽い感じに登場した死神(喪服を着た33歳位の中性的な男)。想像するとギャグっぽい

自称友達というだけあって、哀れなヒル・ヒルのそれまでの辛い出来事を助けるべく色々助言を言ってくれる死神。だが、ヒル・ヒルはこの妙に人懐こい死神が 登場する度にびくびくものである。死神の癖に構ってちゃんかよって言う位話し掛けてくる。結果的に助言のおかげでうまく回るのだけど

実はヒル・ヒルが自殺を試みた時に、ちゃっかり自殺は成功していた。哀れなヒル・ヒルを救うために、神は本当に死ぬまでの猶予を与えられたのであった。そして世界はヒル・ヒルが死んでから600年後、2316年、最後の審判の日、死神が怒涛のネタばれをしてくる

そんなこんなでまさかの地球爆発エンド。頭の中でドリフの盆回りの音楽が流れたわ。これ本当に19世紀の小説か?と疑いたくなる。本作は1852年、作者がおよそ19~20歳の頃の作品であるが、うん、若くなくちゃ書けないよね、こんな終わり方

翻訳者である桑名一博のあとがきに、スペイン文学との出会いが載ってるんだけど、親近感があって良い。第一印象の強烈さとか、後に同作家の他作品を読んだ 時のがっかり感とか。海外作家の本読んでると原書で読みたくなるんだけど、頑張って辞書引いて読んだのに微妙だったりとか。超素直。あるある
電子書籍、福沢諭吉「学問のすすめ」読了。福沢先生が勉めて俗語を用い文章を読みやすくしてくれたりと色々やってくれたみたいですが、無学な僕には「~な り」「~なり」の文章がやはり大変でした。日本語は語尾の意味次第で意味が変わるので迂闊に判断しちゃまずいしね。現代語訳版は青空文庫にないの

冒頭の一文を知っているというのは本を読む上でテンションが上がる一要素だと思っている。「平家物語」とか「竹取物語」とか暗誦させられたものだとしても それは同じだと思う。今回も「「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり」で若干テンション上がる(後に文体で挫折しかけるが)

読む前の印象はとにかく勉強しろと言っている本だと思ってたのだけど、それに限らず(もちろんそう言ってるけど)政府や道徳等多岐に渡っている(ここまで書いてそりゃ学問は多岐に渡るもんだしなと思った)。明治の事はよく知らないが、現代でも通じる事は一杯あると思う

「政府には米もなく金もなきゆえ、百姓・町人より年貢・運上を出だして政府の勝手方を賄わんと、双方一致のうえ相談を取り極めたり。これすなわち政府と人 民との約束なり。ゆえに百姓・町人は年貢・運上を出だして固く国法を守れば、その職分を尽くしたりと言うべし。政府は年貢・運上を取りて正しくその使い払いを立て人民を保護すれば、その職分を尽くしたりと言うべし。双方すでにその職分を尽くして約束をうることなきうえは、さらになんらの申し分もあるべからず、おのおのその権理通義を逞しゅうして少しも妨げをなすの理なし」とても御尤もな事なのだが、その約束事を破り続ける政府もあるし、その政府の下で育まれる国民もいる

「国とは人の集まりたるものにて、日本国は日本人の集まりたるものなり、英国は英国人の集まりたるものなり」とか「日本にはただ政府ありていまだ国民あらずと言うも可なり」とか、この辺りも色々、現代の政治家はわかっているのだろうか。そして国民はきちんと国民としての行動をとっているのかどうか

一番「あれ」だったのは「愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。ゆえに今わが日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり」 でした。現代日本にとっては最高の皮肉である。こんな政府にしてしまったのも我々のせいかもしれない。でも正直最近かなり独裁気味だと思うんだけどなぁ

引用ばかりになってしまうが「学問のすすめ」は「人にして人を毛嫌いするなかれ」という一文で締め括られている。最終的に学問とは人とのコミュニケーショ ンに通じる。人によってポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかがわかれる言葉だと思うが、ポジティブに捉えたいところである
デミアン (新潮文庫)

新潮文庫、ヘルマン・ヘッセ「デミアン」読了。不思議な少年繋がりで選んでみた。映画の「オーメン」に出てくる悪魔の子の名前はダミアン(Damien)だけど、こ れはデミアン(Demian)、ただaとeを入れ替えただけなんだけど、読んでると関係性がちょっとだけ見えてくるような気もしなくはない

主人公であるシンクレール少年が不良少年フランツに目を付けられてしまい、カツアゲされたりで困ってたんだけど、ある日街にやってきた不思議な少年デミアンによって救われる。のが序盤の物語なんだけど…こう書くとドラえもんみたいだわ

デミアンは主人公にカインとアベルの話をするが、彼は普通とは全然違った解釈をしていた。「カインは気高い人間で、アベルが臆病者だなんて!それは不合理で、神をけがすものであり、だいそれたことだった。そうだとすれば、神はどこにいるのか」とシンクレール君が言ってる。これが後々までも影響を落とす事になる

神話において年長者はだいたい悪者扱いされるので、デミアンの解釈は立場上嬉しくもあるのだが、それは置いておいて。ここで関係してくるのがグノーシス派 云々という事だが、僕はグノーシスについてはキリスト教から異端視されてた位しかわからぬので、その辺詳しい人ならもっと面白いだろうね

調べた所、フリーメイソンがグノーシス主義で、その結社を作ったのがシンクレア(シンクレール)一族という事みたい。さらにグノーシス主義の中にカイン派 というのがあって、聖書の悪者を尊敬する一派があるとの事。そして、デミアンの名はデーモン(Demon)が由来してるとか何とか

そうなるとデーモン→デミアン→ダミアンという流れができるのかな。カイン一族は殺されないように額にしるしがついてるんだけど(創世記4-15)、デミアンはこれを「表彰」と表現している。ダミアンの頭に666がついてるのもそのせいでしょうか

だがそうなるとフランツ君がカツアゲする時に、シンクレールがお金の代わりに本やコンパスをあげると言った時、フランツ君の「コンパスなんかなんだい!」という台詞が引っ掛かるな。フリーメイソンのシンボルってコンパスみたいだし。考えたとこでわからんけどな

話題がずれまくってるが、青春小説として楽しめるのは序盤だと思う。個人的にも後半部よりも最初の方が好き。後半はデミアン母であるエヴァ夫人が登場する が、母は別にいらないんじゃないかと思ってしまった。カイン一族の母だから登場させたのかな。ユング心理学とも関係してるらしいが、まぁ良いや

最初から終わりまで警句めいたフレーズが一杯あるので、心に刻みたい名言が多い本でした。真の自己を求めていく過程、自分探しの旅みたいな。そういや、終 章が「終わりの始まり」っていう名が付いてるんだけど、このフレーズはここ由来なのかな?チャーチルの演説(1942)より早い(1919)よ
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