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ヴィレの個人用呟き備忘録。美術や読書なんかを中心にまとめるよ。 読むのならあまり信用しないで、気になったら自分で調べた方が良いよ。 飽き性だからいきなりやめるかも
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国書刊行会、M.H.ニコルソン「暗い山と栄光の山」序論及び2~5章読了。なぜこんな中途半端な読み方をしているかというと自分の興味のある箇所を抜粋しているか ら。ここでは17世紀頃までの山岳観についてを語っている。他の章はそれ以降の時代及び文学的見解の方が強い印象。時間あったら読むという事で

神学的に考えると地球における山の起源は2パターンあるというのを前に呟いた。すなわち「神が造り給いた最初から凹凸ある形としての地球」と「人類の堕落としての罰としての凹凸(山岳)」である。

本来世界は滑らかな球形として造られ、山は人類の罪の証として表されたものである。この球形の事を宇宙卵や世界卵(Mundane Egg)と呼んだ。創世記 1-2「神の霊は水の上を動いていた」とあるけど、ここでの「動く」はmovedではなくヘブライ語の「漂う」「羽ばたく」の意が強い

そこで卵を抱く鳥の姿というイメージが生まれ、キリスト教解説者は天界の鳩の姿で現れた聖霊と同一視し、鳥のイメージの可能性を見出した。そこから卵の物理的性質に関心が寄せられていく事になる

(世界)卵における卵黄=大地、卵白=水、卵黄の被膜=空気、卵の殻=火の4元素にそれぞれ対応していると考えていた。そこで世界に氾濫した水(ノアの洪 水)の源とは一体何なのかという考えになり、後のキリスト教解説者は洪水(人間の罪)が山を高くしてしまったと考えたらしい

この頃には宗教改革もあり全体的にルター的な考え方になる。それが「罪深き人間への罪が自然への罰の形で表出している」という山岳観。さらに1572年に ティコの星、1604年のケプラーの星の発見により、それまでの天界は神が造ったまま残っているという考えが揺らいできた。だけどこの発見のおかげで結構新しい哲学も誕生して、人間の本質の堕落に反してアリストテレス哲学に基づいて人道主義が生まれたり、宇宙は拡大されたのだという考え方により、想像力が広がったりもしたらしい

今度はガリレオによる月のクレーターや太陽の黒点の発見、要するに天体における汚点発見で、人間の罰(自然の罰)はこんな所にまで及んでしまったのかとい う事でやばい事になる。この頃、同時に人々はアリストテレスの基本概念(世界は永遠である)に目を向け始めるらしいけど、それは無意識の足掻きだったんだろうと著者は言っている。そもそもhumanは土(humus)から造られたという聖書の考え方があるので、こういう考え方に至るのも頷ける

いよいよ神学と科学が対面してくる時代。特に地質学は「創世記」があったせいで進展する事がなかった学問らしく、今度は「化石とは何ぞや?」という問題に ぶち当たる。化石はかつて生きていた生物の遺骸かもしれないが、創世記だと生物出現は第4日目の奇跡に当たり矛盾が生じてしまう

この矛盾に対して2つの対応が取られた。
1「化石は生命体じゃなかった説」化石は自然が遊んでこんな変な形にしたんだ!
2「化石こそ海陸の変動の証説」洪水による生物の遺骸なんだ!
で、2の説が信じられた。科学的事実と聖書の記述、どっちにしろ都合が良い

さらに地質学は発展し「山は世界の骨じゃないか説」とか「海水は大地の汗じゃないか説」とか色々出てくる。この頃は世界は生命体として捉えられていたの で、人間との類似性を見出していたらしい。世界の骨説は珊瑚が成長するように岩が成長したっておかしくないという事から。かつて珊瑚は岩だった…

人間との類似性を見出す事、世界を一つの生命体としてみなす事は現代のガイア理論に繋がるかもしれない。人類初の殺人によって大地がアベルの血を受けた事はある意味で環境汚染だったのかもしれない

17世紀、バーネットの「地球の聖なる理論」から山は「地球のこぶ」から「崇高なもの」へと徐々に変化していく。この本では山に対する反感めいたものも書かれているが、著者によると彼は自分の山に対する畏敬や驚嘆の感情と戦っていたとの事。禁断の恋みたいだね
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La Biblioteca di Babeleシリーズ第8巻、H.G.ウェルズ「白壁の緑の扉」読了。ウェルズといえば古典SF「タイム・マシン」「宇宙戦争」「透明人間」が有名どこだけど、SFはあまり手出ししてないジャンル。「宇宙戦争」はスピルバーグがこないだ映画化したね。見てないが

表題他、「プラットナー先生綺譚」「亡きエルヴシャム氏の物語」「水晶の卵」「魔法屋」5編。タイトルは結構翻訳で変わってるらしく、「白壁の緑の扉」は 「塀についたドア」「塀についた扉」「くぐり戸」「くぐり戸の中」等あるみたいだが、原題はThe Door in the Wallである

ウェルズの著作も知ってたし、なにせSFと言えば宇宙、異星人、化学の力万歳!のイメージが強く結構苦手だったのだが、この短編集は全然そんな事なく読む 事が出来た。どちらかというと不思議系の話が多く「不思議の国のアリス」にちょっと現実感と恐怖感を加えた感じ。同じ国の作家だしね

ボルヘスは「ウェルズは、幻想物語は一つだけ幻想的事実を含んでいさえすればよいと考えていた」と考察している。読んでいると確かに妙に現実に沿った話が 多い。もちろんボルヘスがそういう短編を選んでいるのもあるが。トンデモSF小説とは違う現実味が、幻想小説のジャンルに収める所以であると思う

「白壁の緑の扉」は比較的寓話的作品で、一人の国会議員が少年時代に見た幻想にとりつかれる話。少年時代に緑の扉の向こう側にある美しく優しい幸福の庭園に迷い込んでしまう話。結局正体不明の女性に現実へと戻されるんだけど、彼は緑の扉をまたくぐりたいと思っている。だけど扉は試験当日や女性と逢引したい時、父の臨終に際した時など重要な時に現れてしまう。彼は扉を開ける事はないのだけど、代わりにどんどん出世はしていく。さて、どうなる?といったストーリー

小野寺健(訳者)のあとがきに「「白壁の緑の扉」を読んだ者はすぐにフォースターの「生け垣の向こう側」を思い出すであろう」と書いてある。僕は読んだ事無いので読んだ事ある人はやっぱりそう思うのかな

「魔法屋」も好き。奇術用の道具が一杯売られている店に来た親子の話なんだけど、最初は息子視点で読んでて、父視点に変わる瞬間が来る。楽しい夢が悪夢に なって、それから目が覚めていく感じ。「耳をすませば」みたいな。ちくまから「新編魔法のお店」っていう本が出てるんだけど正にそんな感じ
岩崎芸術社、ケネス・クラーク「風景画論」読了。美術名著選書シリーズの中の一冊。「ファン・エイク、ベリーニ、ボス、レオナルド、ロラン、クールベらを経て、光を描こうとした画家ターナーにより絵画の中心的なテーマへと引き上げられてゆく」との説明。幅広く扱ってる。なにせ名著選書シリーズだし

ラスキンの知覚の三階級が面白かった。
1「感情を欠いた知覚」これは正確な知覚で桜草を桜草として知覚する
2「感情を伴った誤った知覚」これは桜草は星や太陽や妖精や乙女なんかにもなる
3「感情を伴った正しい知覚」この場合、桜草は永遠に桜草であり、他の何物でもない

本の章立て通り、クラークは風景画を「象徴としての風景」「事実の風景」「幻想の風景」「理想の風景」の4つに分類し、それぞれに見合う画家を例に出して説明している。で、次の章「あるがままの自然の把握」でターナーについてを語っている

だが、僕の読み方が悪いのか訳が悪いのか若干読みにくい…今誰の事を言ってるの?と度々なる。彼という言葉は秘密感が多い。あとは古い本(1967年初版 だけど、本家は何年だろう)なので注釈もあまりないが故にこちらのセンスで作者の言わんとしている事を読み取らなくてはならない感じがした
La Biblioteca di Babeleシリーズ第7巻、ヴォルテール「ミクロメガス」読了。ヴォルテールは本名のフランソワ=マリー・アルエ(Arouet)のアナグラムの一種だ とか意地っ張りを意味するヴォロンテール(volontaire)由来だとか何とか要するにペンネームだ

表題他、「メムノン」「慰められた二人」「スカルマンタドの旅行譚」「白と黒」「バビロンの女王」の6編収録。ボルヘスは、ヴォルテールの物語にはアント ワーム・ガラン訳の「千夜一夜物語」とスウィフトの「ガリヴァー旅行記」という二つの典拠があると言っている。読んだ事無いけどそんな気がする

La Biblioteca di Babeleシリーズの何巻かに「千夜一夜物語」も入ってたような気がするので後で確かめる事にしよう。個人的には「ガリヴァー旅行記」風の作品の方が好 み。バビロニアの雰囲気はボルヘス作品にも見受けられるけど、やはり「千夜一夜物語」が関係しているか

「メムノン」の書き出し「或る日のことメムノンは、完璧に賢明でありたいと云う、血迷った企てを思いついた」から最高です。完璧に賢明でありたいという事 は血迷っている!そしてそれは気違い沙汰なのだ!そして彼は「完璧主義は身を滅ぼす」というのを清々しくそして痛々しく証明してくれる

18世紀におけるSF哲学物語「ミクロメガス」も最高です。シリウス星人のミクロメガスは巨星に住んでいるので身長はとても大きく39キロもある巨人。なにせ名前がミクロでメガだしね。そのミクロメガスと身長2キロ弱の土星のアカデミー幹事とが地球にやってくる話

で、ミクロメガスのような巨人からしてみれば土星人も矮人(こびと)でしかない。ならば我々人間は賢明な極微小物であり、原子(アトム)であり、昆虫であり、ただのダニである。そんなダニ共が案外まともな話をしているので吃驚仰天という話

哲学するダニ達に賢人である巨人は「霊魂とは何か」を問う。それまで一同に同じ答えを返していたダニ達は口々に違う答えを返す。マルブランシュ派「私のた めに一切の業を行い給うもの、それは神であります…神は一切をなし給うのです」ミクロメガス「むしろ君はいない方がいいんじゃないの」という皮肉

あとは「スカルマンタドの旅行譚」も良い。
「或る夜のこと、愛欲の歓びに感極まって、彼女は私を抱き締めつつ「アラー、イラー、アラー」と叫んだ。これはトルコ人にとっては神聖な秘跡の言葉なので ある。ところが私はてっきり愛の表現に違いないと思ったから、これまた思い切り愛情こめて、「アラー、イラー、アラー」と叫んだものだ。……すると翌朝、イスラムの導師がやって来て、私に割礼を施そうとした。とんでもないと断ったら、早速この地区の裁判官が、これまた如何にも誠実な男らしく、ではお前を尻から串刺しにしてやろうかと提案してきたのである。かくて私はわが包皮と尻とをゼッキーノ金貨千枚で救い出し、急ぎペルシャへ遁走したものだ。トルコではもう二度と、ギリシャ正教のミサにもカトリックのミサにも行かず、誰と会うにせよ、二度とアラー、イラー、アラーなどとは叫ぶまいと堅く心に誓いながら」

ただの馬鹿じゃん!だがこの馬鹿っぽさの中に隠れる宗教批判!翻訳者は川口顕弘、江戸っ子みたいにしたかったらしいが、そういう問題じゃなく上手過ぎる。 今日はフランス革命記念日だしヴォルテールについて語っても怒られないでしょ。なにげにヴォルテールの命日は僕の誕生日なのです

La Biblioteca di Babeleシリーズ第6巻、オスカー・ワイルド「アーサー・サヴィル卿の犯罪」読了。この話、ウィンダミア夫人が出てくるんだけど「ウィンダミア卿夫人の扇」のウィンダミア夫人とは別人だよね?持ってるけどまだ読んでないけど

表題他、「カンタヴィルの幽霊」「幸せの王子」「ナイチンゲールと薔薇」「わがままな大男」の5編収録。ワイルドの話に出てくる登場人物のだいたいは原動力が愛だと思う。作品に作家の性格が出ちゃうタイプと思われる

前半2編よりも後半3編の物語の方が圧倒的に好み。「幸せの王子」のストーリーは知っていたけど、恥ずかしながら原作で読んだのは初めてだった。下手に児 童文学風に編集するのはとても良くない事だ。「ナイチンゲールと薔薇」も短編なのに何とも言えない。嫌いじゃない、むしろこういう話すごく良いわ

そういやシビルって名前も「アーサー…」だけじゃなく「ドリアン・グレイの肖像」にも出てたよね。ワイルドの話は同じ名前の別人が別の作品に出てるパター ンが多い気がする…単に名前考えるのが面倒臭いのか、それとも当時はその名前が流行っていたのか、貴族の名前の定番があるのか…
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